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HAL研に入社以降ずっと『星のカービィ』シリーズのディレクターを担当していた桜井政博が、『星のカービィスーパーデラックス』完成後に初めて違うことをして良いと言われ、4本のオリジナル作品の企画書を書いた。その中の1本、1996年の10月頃に上げられた企画「4人同時対戦可能ダメージ排除型バトルロイヤル格闘」<ref>The 64DREAM スマブラ談</ref>がスマブラの原型となるものであった。
 
HAL研に入社以降ずっと『星のカービィ』シリーズのディレクターを担当していた桜井政博が、『星のカービィスーパーデラックス』完成後に初めて違うことをして良いと言われ、4本のオリジナル作品の企画書を書いた。その中の1本、1996年の10月頃に上げられた企画「4人同時対戦可能ダメージ排除型バトルロイヤル格闘」<ref>The 64DREAM スマブラ談</ref>がスマブラの原型となるものであった。
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1996年の11月頃には桜井政博、岩田聡、サウンドクリエイターの3人という少人数でテスト版の制作が開始された。桜井政博が仕様、デザイン、モデリング、モーションを担当し、岩田聡は平日は『カービィのエアライド』のプログラムをし、休日に桜井政博から渡られた指示書に従ってプログラムを書き上げるというほぼ二人三脚の体制だった。ゲームの背景にHAL研究所がある山梨県竜王町の風景写真を使っていたため'''『格闘ゲーム竜王』'''のコードネームがつけられた。この時点で既に製品版の基本的な仕様はほぼできていたが、[[ファイター]]をどのようなキャラクターにするかは決まっておらず、テスト版では非常に簡素な人型のモデルで戦わせていた。
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1996年の11月頃には桜井政博、岩田聡、サウンドクリエイターの3人という少人数でテスト版の制作が開始された。桜井政博が仕様、デザイン、モデリング、モーションを担当し、岩田聡は平日は『カービィのエアライド』のプログラムをし、休日に桜井政博から渡られた指示書に従ってプログラムを書き上げるというほぼ二人三脚の体制だった。[[ファイター]]は最初、おはじきから腕が生えたようなもの<ref>水口哲也と平林久和の東京ゲームラウンジ ゲスト:桜井政博 2002年7月17日放送 [http://www.nicovideo.jp/watch/sm1540329 ニコニコ動画]</ref>だったが、これでは製品としては魅力に欠けるとの判断で、キャラクターを作ることになり、ひとまずは「ペプシマン」のような見た目の簡素な人型のモデルが作られた。この時点ではまだ任天堂キャラクターを使用する構想は無かったが、製品版の基本的な仕様は既にほぼできていた。ゲームの背景にHAL研究所がある山梨県竜王町の風景写真を使っていたため'''『格闘ゲーム竜王』'''のコードネームがつけられた。
    
1997年の5月のゴールデンウィーク、HAL研は任天堂の宮本茂に、桜井政博が書いた4本の企画書の中から、格闘ゲーム竜王と、アクションアドベンチャーゲームのテストバージョンのロムのプレゼンをした。そこではアクションアドベンチャーが採用され、格闘ゲーム竜王は一旦はお蔵入りとなった。だが、後に『カービィのエアライド』の制作が仕切り直しとなり、HAL研はまだNINTENDO64でソフトを1本も出せていなかったこともあり、「すぐに作れるソフト」ということで格闘ゲーム竜王の企画を復活させた。
 
1997年の5月のゴールデンウィーク、HAL研は任天堂の宮本茂に、桜井政博が書いた4本の企画書の中から、格闘ゲーム竜王と、アクションアドベンチャーゲームのテストバージョンのロムのプレゼンをした。そこではアクションアドベンチャーが採用され、格闘ゲーム竜王は一旦はお蔵入りとなった。だが、後に『カービィのエアライド』の制作が仕切り直しとなり、HAL研はまだNINTENDO64でソフトを1本も出せていなかったこともあり、「すぐに作れるソフト」ということで格闘ゲーム竜王の企画を復活させた。